私、復活祭のテンションで留学を語る
突然ですが留学までの経緯を小学生からさかのぼってお話してみたいと思います。
私の家は勉強はしなくても構わない、という教育方針で、私も中学を出たら働くのだと、親が高校を勧めてくるまでは真剣に思っていました。実際、勉強も運動も得意ではなく、美術、家庭科の成績が人より少しいい位でしたので、母の影響もあり、ものづくりをして生計をたてようと小学生のときから思っていました。それにはとくに勉強は必要ではないのではないかとも思っていました。
でも流れにのって高校に進学もしましたし、大学は絶対だめだと美大なんてもっての他だと、強く言われていたにも関わらず、高3の夏に、どうしても大学に行きたくなって、予備校代はバイト代で出すと約束し、毎晩枕元で土下座してお願いし(寝させない作戦)、大学受験はさせてもらいました。そんなに騒いでも落ちるものは落ちるもので、高校卒業後はテキスタイルデザインの専門学校に通いました。
しかしやっぱり学費がもったいな気がしたので1年で退学し、そのあとはセツモードというデッサンの学校に週3回、半年程通ったあと、そこに貼ってあった求人を見て、早川タケジさんという衣装デザイナーさんのもとで働かせてもらいました。その間、青山塾というイラストレーションのスクールに週に一度、仕事の合間を抜けて通っていました。月7万位の稼ぎで、作業が山場のときは三日三晩家に帰れずお風呂にも入れず、真冬の倉庫で体育座りで寝るような過酷な生活をしていましたが、ものづくりの根性を教わったのは早川さんからでした。毎月の収入から、家に入れるちょびっとの生活費、年金と青山塾の学費を抜いたら手元にお金など残らず、汚い格好で買出しに出かけた先で、大学生の友人に会ったときは、さすがに悲しくなりました。
そのころに青山ブックセンター本店内で青山塾生の絵の展示があり、それを見たアクアガールのデザイナーさんに声をかけていただいて始めてのお仕事をいただきました。それをきっかけに自分の制作時間を持つべく、早川さんのところを辞めて、バイトをしながら売り込みをはじめました。それが20歳のときで、HBギャラリーで無謀にも個展をさせていただいたのは22歳のときでした。
それまでは、売り込みをしても全く上手くいかず、苦手な電話を克服するため、オペレーターのバイトをしたりして売り込みスキルを伸ばす努力をしていました。一向に売り込みのよいお返事がもらえない日々が続く中、バイト先で初めて、福利厚生や厚生年金という言葉を覚えて会社に勤めるって素敵だなと、心が揺らいだこともありました。そういう半端な気持ちに区切りをつけるべく個展の申し込みをし、それと同じ時期に「ひとつぼ展」にも入選し、その二つの展示で、いくつかお仕事をいただくことができるようになりました。それから少しずつ、◯◯を見て連絡しました、というように、仕事が広がるようになり、いろんな方との巡り合わせや助けをいただき、バイトなしで生活ができるようになり、七転び八起きで今に至ります。
留学をしたいと最初に思ったのは高校生のときですが、計算するまでもなくお金がたりませんでした。仕事が軌道にのるまでは、なんとかバイトで費用が貯められないかと努力してみたものの難しかったです。それで、まずは日本で出来る限りのことをやるべきなのではと思い直して、留学用に貯めていた貯金ではじめての個展をしたわけです。そして、仕事に少しは自信もついて、留学を考え直したときに、一時は260円ほどまであがっていたポンドも140円になっていて、マンション買うぞーって貯めていた貯金と照らし合わせてみたら、それが無理な話ではなくなっていました。以前に書いた話の繰り返しになりますが、仕事の区切りもうまくついて、出るにはタイミングがとてもよかったのです。ただ仕事以外では家族のことが気がかりでしたので、少しでも孝行をと思って、多少自宅のリフォームをして家を出ました。
留学はお金もかかるし、奨学金だってめったにもらえないし、簡単なことではないかもしれません。こちらで会う留学生を見てると、日本人に限らず、やはり金銭的に環境が恵まれてると思われる人はとても多いです。でも、お金の問題は必要ならば解決できるのだと思います。解決できないときは他に道があるのだと思うのです。私は大学に落ちたことも、それがたいした事ではないと頭ではわかっていても、10代のときはだいぶひきずりましたし、20歳前後のときは路頭に迷ったような暗い気持ちですごしていました。がむしゃらに模索する毎日の中で壁にぶつかることは本当に多かったと思います。そして、それが今、大人になって出来ることが増えていくことへの喜びに変わっているのだと思うのです。大人になって留学しても英語の習得が遅いなんていう話もありますし、学生時代に勉強してこなかったツケが今に回って来ているという感じもしないこともありません。ただ、私にとってそれはたいしたことではありませんし、留学のタイミングは今だったのだと、つくづく思うのです。人それぞれ、物事のタイミングとその時にするべきことがあって、今うまくいかないことがあったとしても、それは自分の進むべき道への修正かもしれません。自分の気持ちに従って思い描いたことは叶えられるのだと思うのです。だから、私は中学生のときに夢見たディカプリオとの結婚を諦めたわけでもないということも付け加えておきます。
今日はイースター(復活祭)ということで語ってみました。
ホストマザーが焼いたイースターバニーのパンです。かわいい!!
ホストマザーは家族揃ってのキャンプに出かけてしまい、フラットメイト達も旅行にでているので、家に1人だったのですが、ホストマザーに寂しかったらエリックに電話してね、と言われました。そこまで、頼っていいものでしょうか。何度も言うけど、テレビもお借りしているのに…。
私の家は勉強はしなくても構わない、という教育方針で、私も中学を出たら働くのだと、親が高校を勧めてくるまでは真剣に思っていました。実際、勉強も運動も得意ではなく、美術、家庭科の成績が人より少しいい位でしたので、母の影響もあり、ものづくりをして生計をたてようと小学生のときから思っていました。それにはとくに勉強は必要ではないのではないかとも思っていました。
でも流れにのって高校に進学もしましたし、大学は絶対だめだと美大なんてもっての他だと、強く言われていたにも関わらず、高3の夏に、どうしても大学に行きたくなって、予備校代はバイト代で出すと約束し、毎晩枕元で土下座してお願いし(寝させない作戦)、大学受験はさせてもらいました。そんなに騒いでも落ちるものは落ちるもので、高校卒業後はテキスタイルデザインの専門学校に通いました。
しかしやっぱり学費がもったいな気がしたので1年で退学し、そのあとはセツモードというデッサンの学校に週3回、半年程通ったあと、そこに貼ってあった求人を見て、早川タケジさんという衣装デザイナーさんのもとで働かせてもらいました。その間、青山塾というイラストレーションのスクールに週に一度、仕事の合間を抜けて通っていました。月7万位の稼ぎで、作業が山場のときは三日三晩家に帰れずお風呂にも入れず、真冬の倉庫で体育座りで寝るような過酷な生活をしていましたが、ものづくりの根性を教わったのは早川さんからでした。毎月の収入から、家に入れるちょびっとの生活費、年金と青山塾の学費を抜いたら手元にお金など残らず、汚い格好で買出しに出かけた先で、大学生の友人に会ったときは、さすがに悲しくなりました。
そのころに青山ブックセンター本店内で青山塾生の絵の展示があり、それを見たアクアガールのデザイナーさんに声をかけていただいて始めてのお仕事をいただきました。それをきっかけに自分の制作時間を持つべく、早川さんのところを辞めて、バイトをしながら売り込みをはじめました。それが20歳のときで、HBギャラリーで無謀にも個展をさせていただいたのは22歳のときでした。
それまでは、売り込みをしても全く上手くいかず、苦手な電話を克服するため、オペレーターのバイトをしたりして売り込みスキルを伸ばす努力をしていました。一向に売り込みのよいお返事がもらえない日々が続く中、バイト先で初めて、福利厚生や厚生年金という言葉を覚えて会社に勤めるって素敵だなと、心が揺らいだこともありました。そういう半端な気持ちに区切りをつけるべく個展の申し込みをし、それと同じ時期に「ひとつぼ展」にも入選し、その二つの展示で、いくつかお仕事をいただくことができるようになりました。それから少しずつ、◯◯を見て連絡しました、というように、仕事が広がるようになり、いろんな方との巡り合わせや助けをいただき、バイトなしで生活ができるようになり、七転び八起きで今に至ります。
留学をしたいと最初に思ったのは高校生のときですが、計算するまでもなくお金がたりませんでした。仕事が軌道にのるまでは、なんとかバイトで費用が貯められないかと努力してみたものの難しかったです。それで、まずは日本で出来る限りのことをやるべきなのではと思い直して、留学用に貯めていた貯金ではじめての個展をしたわけです。そして、仕事に少しは自信もついて、留学を考え直したときに、一時は260円ほどまであがっていたポンドも140円になっていて、マンション買うぞーって貯めていた貯金と照らし合わせてみたら、それが無理な話ではなくなっていました。以前に書いた話の繰り返しになりますが、仕事の区切りもうまくついて、出るにはタイミングがとてもよかったのです。ただ仕事以外では家族のことが気がかりでしたので、少しでも孝行をと思って、多少自宅のリフォームをして家を出ました。
留学はお金もかかるし、奨学金だってめったにもらえないし、簡単なことではないかもしれません。こちらで会う留学生を見てると、日本人に限らず、やはり金銭的に環境が恵まれてると思われる人はとても多いです。でも、お金の問題は必要ならば解決できるのだと思います。解決できないときは他に道があるのだと思うのです。私は大学に落ちたことも、それがたいした事ではないと頭ではわかっていても、10代のときはだいぶひきずりましたし、20歳前後のときは路頭に迷ったような暗い気持ちですごしていました。がむしゃらに模索する毎日の中で壁にぶつかることは本当に多かったと思います。そして、それが今、大人になって出来ることが増えていくことへの喜びに変わっているのだと思うのです。大人になって留学しても英語の習得が遅いなんていう話もありますし、学生時代に勉強してこなかったツケが今に回って来ているという感じもしないこともありません。ただ、私にとってそれはたいしたことではありませんし、留学のタイミングは今だったのだと、つくづく思うのです。人それぞれ、物事のタイミングとその時にするべきことがあって、今うまくいかないことがあったとしても、それは自分の進むべき道への修正かもしれません。自分の気持ちに従って思い描いたことは叶えられるのだと思うのです。だから、私は中学生のときに夢見たディカプリオとの結婚を諦めたわけでもないということも付け加えておきます。
今日はイースター(復活祭)ということで語ってみました。
ホストマザーが焼いたイースターバニーのパンです。かわいい!!
ホストマザーは家族揃ってのキャンプに出かけてしまい、フラットメイト達も旅行にでているので、家に1人だったのですが、ホストマザーに寂しかったらエリックに電話してね、と言われました。そこまで、頼っていいものでしょうか。何度も言うけど、テレビもお借りしているのに…。
- 2012.04.08 Sunday
- 考えたこと
- 23:53
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- by Yu Shichiji
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